あ。 朝いちご牛乳を飲もうとして、隣にたててある牛乳パックの日付を見てやべっと思わず声が出た。三日すぎてる。さすがに、封を切った牛乳はやべーだろ。もったいないけど。
そう思って冷蔵庫の一番うえの棚を見たら、未開封の牛乳パックが三本もあった。日付は一本だけ三日前の、他の二本は今日まで。あっそうだ今週神楽こねーのに。たっぷり残っていた牛乳を排水溝に捨てながらうそぶく。がぼがぼ、と変な声を立てながら牛乳パックの、ゆうに三分の二は残っていた中身を飲み込んだ排水溝が一瞬だけ白くにごり、すぐにしゅっと銀色の光を取り戻した。
神楽、というのは銀時の姪っ子の名前だ。まだ小学校二年生なのにものすごい大食らいで、初めて預けられた叔父の家に物怖じするかと思いきや、米びつをからにして帰っていったというおそろしい小学生だ。どこにおさまってんだかなー、あいつまだチビなのに、あちこち、 神楽の母親がきいたら跳び蹴りでもしてきそうなことを考えつつ、テレビの天気予報を見て、のんびりネクタイをととのえる。

坂田さんちのいちご牛乳は銀時のためのもの、背がちいさい神楽は朝ご飯とお夕飯の時に牛乳を一杯ずつ、飲む。今週は旅行に行くんだかなにかで、そういえば来ないつってたのに、安くなってたから買っちゃったんだった、俺のばか。そう悔やみながら銀時は白い息を吐き、駅へと向かう。今日も寒い。昨日の夜降った雨のせいでアスファルトはまだちょっと濡れている。
満員電車の一歩手前といった風な各駅停車に揺られて会社へ向かう。月曜の朝一なので朝礼がある。デスクの中からIDカードを取り出して首から提げながら、あっそうだ、と思いついた。明日までの賞味期限な牛乳を二本、いっきに消費しきる方法だ。ずっと考えていたのだった。グラタンでも作ろう、それか、ドリアでもいいけど。でも今日はなんとなくグラタンの気分。
冷蔵庫にとりももがあったはず、あと大家のババアがくれた海老が冷凍庫に入れてある。海老グラタンにするかチキングラタンにするか、会議室のパソコンの調子が悪くて起動しないだなんだといって会議がちょっと延期になったのをいいことに、銀時はグラタンの具について悶々と悩み続けた。たまねぎはあった、マッシュルーム、これは買わないとない。しめじ。確かあったはず、ピーマン(そういえば神楽はピーマンが嫌いだけど、みじん切りにして入れたら海老だの他の具に気をとられて、うっかり食っちまうかもしれない、今度試してみよう)、これも買って帰ろう。
鶏肉が悪くなるとまずいし、海老だって長期にわたって冷凍庫に放り込んでおいたんじゃ味が落ちるから、せっかくだしと両方入れることにした。あ、あと大事なマカロニ。買って帰らないと。

あれこれ考えていたら楽しくなってきて、銀時はいつもよりもずっと短く済んだ残業のあと、また各停にのらくら揺られながら帰って、駅前の大きなスーパーで買い物をしてから、そそくさと家路についた。いつもなら神楽がいない日はどっかで飲んで帰ろうかとかビデオでも借りてくかとか──神楽がいると見れないようなたぐいの──考えたりするのに、家に帰って、のんびりホワイトソースをかき回しているところまでは、ご機嫌だった。そのあとだ。コンロの上ではぐつぐつとマカロニをゆでる鍋が音を立てている。
いざオーブンに入れたところまではご機嫌が継続していた。どうしてか、その後ビールをあけたあとだ。自分でも不安定な女子みたいに、どうしてそんなことになったものか理由の説明が出来なかったが、銀時はしゅっと楽しかったはずの気持ちがしぼんでいくのを感じた。どうしてだろう。あと十五分もすればグラタンは焼き上がって、ぐうぐうと鳴る腹をめいっぱい満たしてくれるだろうに。
自分で言うのも何だが銀時はわりと料理が出来る方だ。ケーキまで焼ける、別にそれが理由で神楽を預かるようになったわけじゃないけど──自炊を始めたのがなんでかって、学生時代の貧乏暮らしが理由とか恥ずかしい、言わせんな──とにかく、本があれば大抵のものは作れる。ホワイトソースを手作りするやつなんてなかなかいないんじゃね? と思ったところで、褒めてくれる相手が今この場に誰もいなかった。ひとりっきりのお夕飯だ。さみしい。
と。

こんこん、とノックの音がした。ドアの方からだ。鉄製のドアを誰か叩くものがいるらしい。こう言うとなんだかメルヘンチックな表現だけれども、その実、インターホンが壊れているだけだ。音がしない。壊れたのは二週間前、給料日前だったので、仕方なしに銀時はガムテープに「インターホンが壊れてます ご用の方はノックしてください いれば出ます」と書いて貼り付けておいた。銀時が住んでいるのは古びた四階建てのアパートだ。昭和何年建設とか、俺よか年上じゃんと言いつつもうここに学生時代から十年近く住んでいる。急かすようにノックの音。きっかり二回。
「はいはい」
治安がそう悪いわけじゃないので、ドアについてるかぎは一個だけで、あとはドアチェーンだ。無造作にかぎを外してドアを開けると、最初にマスクが目に入った──その次に、ふわっとたばこのにおい。
お隣のおとなりの、ナントカさん。角部屋。
「…回覧板」
ちょっとした間のあと、マスクをずりおろして、なんとかさんは言った。え。は? 銀時は一瞬、あっけにとられてそんなろくでもない返事しかできなかった。だってこのなんとかさん、全然気づかなかったっつーかヤローの顔なんかどうでもいいんだけど、すげーイケメンだった。髪の毛なんか癖のくの字も知らないって風のさらさらなストレート、しかもつやつやした黒髪。
「前のがアンタんとこで止まってたから、気をつけろって大家に言われてんだ」
直接渡してくれって、そう言って彼は回覧板と呼んだ厚紙で出来たファイルをぶらぶらと揺らした。銀時ははっと我に返って、あ、どうも、ともぐもぐ改めて返事をする。男の顔に見とれてろくでもないせりふしか吐けないなんて、女相手に同じ状況になるよりもずっとたちがわるい。
「じゃ」
そんな銀時の不審な態度を何とも思わなかったのか、もしくは全く興味がないのか、なんとかさん、はすぐさま行ってしまおうとした。多分会社帰りなんだろう、冷たい夜のにおいがするコートに、書類で重たそうなかばん、もう片方の手にビニール袋。コンビニの。セブンイレブンの茶色い袋だ。弁当とかを買うと、入れてもらえるやつ、
「あ、のさ」
とっさに出た言葉はため口だった。それよりなんとかさんの気に障ったのは、銀時がぱっと手を出してそのビニール袋をつかんでいる方の手首をさわったから──更に言えば、その拍子に袋をうっかり、うばってしまったから──だった。さっと銀時の顔を一瞥した彼の目に怒りがうかぶ。こんなきれいでいかにもクールな顔してんのに、すげー怒りっぽいのなこの人、名前を呼ばせて貰えるより先に殴りかかられそうだった。うす青いふしぎな色の目に走った稲妻のような光を銀時は見逃さなかった。ついでに、たぶんすごく手強い。
「あ、ごめん」
悪気はなかったことをアピールするために慌てて手を離して、ホールドアップの体勢をとる。これで手を挙げられたらもうおしまいだが、なんとかさんはぴくりとその重たい前髪のうしろで形の良い眉を片方動かしただけで、結局銀時を殴るのをやめた。「なんなんだよ」
「いや、グラタンなんだけどね、今日ね、うち」
「……は?」

たっぷりとした沈黙のあと、なんとかさん──ひじかた、土に方角のホウと書く、はみるからに意味がわからない、という顔をした。銀時は寒いからとりあえずまあ上がってよと訳のわからないことを口走って、無理矢理顔だけは知っているご近所さんを家の中に招き入れて、それから朝からの状況について一からちまちまと説明した。かくかくしかじか、あ、神楽ってのは俺の姪っ子ね、写真見る? 銀時の言葉をどこまで受け入れたものか土方の表情からは解らなかったが、どうしてか銀時が願った通りに、賞味期限が切れそうな牛乳を消費するためのグラタンを食べるのを手伝ってくれ、晩酌にもつきあってくれた。
土方がセブンの袋に入れていたのはイカ焼きとしゃけのちらしご飯で、もったいないからといってこっちもふたりでつついて食べた。土方は食べ方こそがつがつと男らしかったが、決して箸の使い方は汚くなかったし、フォークで皿をきいきい言わせることもしなかった。強いて言うなら、マヨネーズだ。
イカ焼きをレンチンして暖め直すなり、土方はどばっとそれにマヨネーズをかけた。「えっ、なにそれ」
「マヨネーズだけど」
書類かばんからひょいと取り出されたそれに唖然とした銀時が訊ねても、土方はしれっとそう答えるなり、にゅるにゅるやる手を再開させただけだった。俺も甘いもんは好きだけど、でもそれはねーよ、まじ、 グラタンにも土方はマヨネーズをにゅるにゅるやって食べて、でもうまいと言ってくれた。

牛乳はあと一本残っていて、賞味期限は変わらず明日だ。明日はどうしよ、またグラタンすっか。シチューでもいいけど。食後にりんごをむいてつついていた銀時の横で、まだちびちびビールをすすっている土方が言う。「マヨネーズとか」
「え、」
「てめー、マヨ馬鹿にすんなよ」
「いや違ぇけど、つーかマヨネーズの成分、牛乳はねえし」
「あ? 色一緒だろ」
「ちげえって」
そんなやりとりをぐだぐだと続けて、結局明日はマヨネーズではなしに、シチューを作ることにした。マヨがけのグラタンはあるかないかの話でだいぶふたりは揉めたが、土方は明日もシチューを消費するための来訪を約束してくれて、十一時すぎに帰っていった。


20130106-07
何も始まらないかんじの スタートラインに立つまでにめちゃ時間がかかるぎんひじとかくそ萌える