店の中は夜更けに降る雨のようにじっとりとして、うす暗かった。
急すぎる階段を下り、濃い赤と紫のあいの子のような色に塗られた重たいドアを押し開け、中に入る。ここに来るのは、二度目だった。
かろんかろん、とドアに付けられたベルが鳴る。まるでここが不健全なバーではなしに昼間の喫茶店であるかのように健康的な音色だった。

暗く、最初は目に慣れない藍色の闇の中、ぼうっとカウンターが浮かび上がっている。スツールの足下に配置された間接照明のせいだ。スモークを焚いたようににごった空気の中を、銀時はかき分けて進む。
そこに、前と同じ場所に、彼は座っていた。


初めてここへ来たのはつきあいだった。ガキの頃から変な腐れ縁の続いている、坂本の誘いだ。いいバーがあるきに、おごっちゃる── 奢りの一言につられたわけでは決してなかったが、銀時は何週間かぶりに、目的を持って街へと出た。銀時は、売れない物書きだ。学生のころ、憤りを文字にぶつけて描いた小説が、なぜか評価され、あれよあれよという間に処女作が世に出た。一時は文学賞もねらえるのではとささやかれたその作品から残酷に時もながれ、今となっては銀時の名前を聴いても、ああ昔読みましたよと言われてしまうしまつだった。糊口をしのぐために官能小説をペンネームで書き散らして、食い扶持をかせいでいる。毎日紙へと向かい、原稿用紙の白い穴が小さいことに絶望しては、こうしてやるせなくずっぷりとした泥沼のような日々をやりすごしているのだった。その日暮らし、 そんなそしりも受けるが、反論するすべを今の銀時は持たない。そして、坂本に誘われたその日が、何度目かの投稿作が落選したとの知らせを受けた日であった。


カウンターと、ふたつほどテーブルの席がある。テーブルは赤く塗られていて、ふしぎとほの暗く藍い店の空気にとけ込んでいた。客は奥のテーブルにひと組、なんだか訳ありの男女といった風で、銀時と坂本に一瞬だけ目をやり、またすぐに伏せた。坂本はまったく意に介さず、ずんずんとふしぎな空気の中を進む。そしてスツールをいささか乱雑に引き、そこへ腰掛けた。
「おお!」
それから、やっと気づいたように声を上げた。ほぼ無音に近い、店の中では少しばかり大きすぎる声だった。「とうごろくんじゃなか!」
坂本からふたつ離れた席に、ひとり、華奢な肩をした青年が座っていた──銀時は知っていた──。むしろ、この店に入った瞬間から、その少年から目が離せずにいた。ばしばしと坂本は元気よく手を振り、まるで旧友のような親しさでその細い肩を叩く。とまれ、彼が細すぎるというのではなしに、未だ成長路線の途中にあるが故といった風だったが──。痛い、やめてくれ。 静かな声で坂本を制し、とうごろうと呼ばれた彼がちらりと銀時の方を見た。
黒々とした墨いろの目のふちに、青い光がひとすじ差している。変わった目の色だ。ただし、おどろくほどにうつくしい。まるで息を呑むほど。
それだけではなしに、少年は目をみはるほど整った顔立ちをしていた。白いゆったりとしたシャツは襟ぐりが大きく開いていて、透けそうに白い肌を胸元までさらけ出している。そんな格好で外を歩いて大丈夫なのか、と人ごとながら下世話な想像をしてしまうほどだった。くっきりとした陰影を描く鎖骨のライン、まくり上げたシャツの袖からのぞく、細い手首。長い脚は無造作に投げ出されて、スツールにつま先をひっかけている。
「何をしちょる、きんとき。はよ座らんか」
「あ、おう」
あまりの驚きから現実が遠いものに思えて、いつもなら「俺の名前は金時じゃねえ」と言うところが、何も言えなかった。
少年はしばし銀時たちふたりのやりとりを見ていたが、ふと目を反らし、手に持っていた背の高いグラスをぐい、とあおった。か、こん。 グラスの中に浮いていた氷どうしがぶつかって、どうにも軽すぎる音を立てた。少年がグラスの半ばほどまでに減っていた飲み物を飲み干したのだとわかった──みなが少年に目を奪われていた。坂本でさえ、もしかしたら。




少年は今日、上も下も黒い服を着ていた。それを着ているとバーテンでもあり、店主でもある高杉と雰囲気が似ているようで、なんだか銀時は落ち着かなくなってしまう。
五つしか席のない、カウンターの右端。
今日の彼は細長いグラスを手に、そこへ腰掛けていた。艶のある黒髪が青色の闇の中に溶け出してしまいそうだ。銀時が三つ、遠慮がちに空けたスツールを引いても、顔もあげない。グラスがふちに抱いた光を見つめているだけだ。伏せられたまつげの長さは、まるで人形じみていて作りものにすら見える。
「今日は?」
カウンターの中からけだるげに店主が声をかけてきた。今日は少年と、銀時以外に客はない。雨の降る夜であったからかもしれない。もしくは、そうではないのか。「──紅茶」
ふ、とまた少年が目をあげ、銀時を見る。いっそぶしつけなほどにまじまじと顔を見つめていたかと思うと、ふと思い出したようにスツールから立ち上がった。そんなに無造作に動かしたのでは、その長い手足が絡んでしまうのではないか──銀時はそんならちのあかない想像をめぐらす。たいそう無益だったが、やめられない。
この間も、銀時は同じものを頼んだのだった。どうしてか酒をやる気になれず、ほとんどだめもとで紅茶、と言ったら高杉は渋い顔をし(このとき少年が高杉のことを呼んだので名前を知ったのだった──)、坂本もぽかんと銀時の顔を眺めていた。と、
無言で今のように少年が席を立ち、ついとバックヤードに消えたかと思うと、戻ってきてテーブルにティーカップと、その脇にティーパック・ソーサーを置いた。しゃれた銀の、ポットの形をした皿だ。
「え、あ、ありがと」
一瞬言葉が生まれずに銀時が口ごもったすえにやっと礼を言ったのに、少年は一瞥さえくれなかった。ひらりと踊る木の葉のような軽やかさで元いた席に戻り、その後は一切、酒を飲んでくだを巻く坂本にすら目をくれなかった。
(まるで何も聞こえてねーみたいなかおして)
少年の名を、銀時は坂本から教わった──ひじかた、

バックヤードから戻ってきた少年は、また先日と同じように銀時の前に紅茶のワンセットを置いていった。この間とは香りがちがう、そう思ったが、もしかしたら同じかもしれない。銀時に紅茶の善し悪しなどわからない。普段はのみつけないものを、どうしてかあのときは頼んでしまったのだった。自分には似合わない。そうは思うのだが。
「あ、あのよ」
他に客がいないからなのか、それとも高杉がふらっとカウンターから出て行ってしまって、何か気持ちが揺れることでもあったか。土方はややあって、銀時の方を向いた。ひたりと銀時を見つめ、まばたきすらしない。そのうつくしく冷たい磨き抜かれた石のような目のいろ。
「ありがとよ、これ、…おめーの分なんだって」
この話は坂本があとになって高杉だかから聞き出したものだった。バーには紅茶なんてものはもちろんおいてない。基本的に酒類しかおかないというのが店主の高杉の方針らしい。だが、こんなバーに夜な夜な現れる不良少年なくせに、土方は酒はやらないらしい。たばこは、吸うらしいが。それで、バックヤードに自分のための紅茶を置いているのを、出してくれたのだとかいう。
「べつに」
つい、と顔を背けた少年の目には、照れだとかそういうかわいらしいものはひとつもなかった。全く、かおだけなら天使がよってたかって丹誠込めて作ったようにうつくしくてかわいらしいのに、どうしてこんなにかわいげがないのだろう。銀時は思わずむっとして、「おめー、かわいくねーな!」と言ってしまった。言ってからしまった、と思ったが、もうおそかった。

その言葉の何に気を引かれたか、土方はまた、少しの間を置いてふしぎな目を銀時に向けた。そして、言った。
「おれはうつくしいから、可愛くなくたっていいんだ」
おあいにく様。 そうにやりと勝ち誇ったように笑う、赤い口があまりにも淫猥に見え、そして同時にこの少年が今までよりもずっと年相応に思えて、銀時はスツールの上で、ぐっと手を握りしめた。自分でもなんだか解らない
(いっそそこへかみついてやりたいという)
衝動に耐えるため──もしくは。
あるいは、



夜な夜な夜な

20130212
前についったーで見たRTにたぎった結果 たのしかったです美少年